琵琶湖のそばを歩く旅、
芦浦観音寺から石山寺を目指します。
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芦浦観音寺
一見お城のような外観の芦浦観音寺。
これは安土桃山時代から江戸時代にかけて
芦浦観音寺が政治的に大きな力を
持っていたからだそうです。
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特に当時の住職が豊臣秀吉から信頼され
琵琶湖湖上交通の管理、監督を担う
船奉行に任命されました。
そんな芦浦観音寺から南へ約6キロ、
草津市内を歩きます。
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草津名物をおよそ400年作り続ける
お店に立ち寄ります。
その名物というのがうばがもちです。
うばがもちや本店
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1500年代後半、
ここ草津を治めていた佐々木義賢は
織田信長に滅ぼされます。
その時に佐々木義賢は
自分のひ孫だけは助けたいと
乳母にひ孫を託し逃がします。
その乳母はここ草津に密かにとどまり
餅を売ってそのひ孫を育てたそうです。
そこからうばがもちという
名前が付けられました。
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その後徳川家康が
このうばがもちを大変気に入り
その名が全国に知れ渡り、
近松門左衛門の浄瑠璃や
歌川広重の浮世絵にも登場します。
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うばがもちや本店を出て歩いていると
赤ちゃんを抱っこした
奥様に声をかけていただき
一緒に記念撮影することに。
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![奥様](https://mukaera.com/wp-content/uploads/2021/10/12103A36-AA8B-4590-9DB4-63A4FBEBE165-150x150.png)
河田さん、いつも応援してますよー!
![河田](https://mukaera.com/wp-content/uploads/2022/01/vlcsnap-2021-10-17-15h50m26s219-150x150.jpg)
ありがとうございます!
![奥様](https://mukaera.com/wp-content/uploads/2021/10/12103A36-AA8B-4590-9DB4-63A4FBEBE165-150x150.png)
クラモチさんもがんばっていらっしゃいますね!
![くっすん](https://mukaera.com/wp-content/uploads/2022/01/vlcsnap-2021-12-23-22h01m54s138-2-150x150.jpg)
クラモチさん??
僕のことですか?
名前を間違えられやすいくっすんは
今まで「くっさん」「ぐっさん」
「くすさん」と呼ばれたことがありましたが
「クラモチさん」は初めてでした。
彼は楠雄二朗、通称くっすん。
またU.K.とも名乗っています。
以後どうぞお見知りおきください!
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草津は昔大きな宿場町でした。
というのも
東海道と中山道が交わる場所で
大勢の人が行き来したからです。
東海道と中山道の合流地点に
追分道標と呼ばれる
道しるべが設置されています。
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「右 東海道いせみち」
「左 中仙道美のぢ」と刻まれています。
ん?「美のぢ」って何だ!?
これは「美濃路」のことで
東海道から中山道を結ぶ
街道のことを意味しているそうです。
そしてその追分道標のそばにあるのが
草津宿本陣です。
草津宿本陣
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本陣とは公家、大名、幕府の役人など
身分の高い人たちが宿泊するための施設です。
建物は玄関、書院、門構(もんがまえ)を
備えているのが一般的です。
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1865年には新選組の隊士が
宿泊した記録が残されています。
新選組は江戸で隊士を募集し、
新しい隊士を引き連れ京都に戻る途中で
土方歳三ら幹部4人を含む
合計32人が宿泊したという
記録が残されています。
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本当に丁寧に保存、管理されているので、
一歩中に入るだけで
当時の雰囲気を味わうことができます。
目の前に大きな橋が見えてきました。
草津と大津を結ぶ近江大橋です。
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1974年(昭和49年)に開通した
全長約1.2キロの橋で
実は緩やかなアーチ状になっています。
今回はこの橋を渡らずに
この「昔の人は偉かった」に
ふさわしい橋を渡って
石山寺まで歩くことにしました。
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南へ約3キロ行くと
もう一つの橋が見えてきました、
これが瀬田の唐橋です。
瀬田の唐橋
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その昔、
東から京都に向かうには
草津の矢橋(やばせ)から大津まで
船で琵琶湖を渡るのが最速ルートでした。
ところが比叡山から吹き下ろす風が強くて
危険な航路だったため、
急ぐなら遠回りして
瀬田の唐橋を渡るほうが良いと
言われたのです。
さらに当時こんな短歌も詠まれました。
もののふの
矢橋の船は速けれど
急がば回れ
瀬田の長橋
「急がば回れ」ということわざの語源は
この唐橋というわけです。
ちなみに瀬田の唐橋は
宇治橋(宇治市)、
山崎橋(大山崎町)とならび
日本三古橋のひとつなんだそうですよ。
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唐橋を渡って瀬田川沿いを
さらに歩くと石山寺に到着です。
石山寺
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平安時代に観音信仰が広まり
これが貴族の間でも流行しました。
石山寺を参詣していた紫式部が
源氏物語を起筆した話は
広く言い伝えられています。
御本尊は秘仏で
ご開帳は33年に一度、
もしくは天皇ご即位の翌年と
されています。
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