琵琶湖のそばを歩く旅、
芦浦観音寺から石山寺を目指します。
芦浦観音寺
一見お城のような外観の芦浦観音寺。
これは安土桃山時代から江戸時代にかけて
芦浦観音寺が政治的に大きな力を
持っていたからだそうです。
特に当時の住職が豊臣秀吉から信頼され
琵琶湖湖上交通の管理、監督を担う
船奉行に任命されました。
そんな芦浦観音寺から南へ約6キロ、
草津市内を歩きます。
草津名物をおよそ400年作り続ける
お店に立ち寄ります。
その名物というのがうばがもちです。
うばがもちや本店
1500年代後半、
ここ草津を治めていた佐々木義賢は
織田信長に滅ぼされます。
その時に佐々木義賢は
自分のひ孫だけは助けたいと
乳母にひ孫を託し逃がします。
その乳母はここ草津に密かにとどまり
餅を売ってそのひ孫を育てたそうです。
そこからうばがもちという
名前が付けられました。
その後徳川家康が
このうばがもちを大変気に入り
その名が全国に知れ渡り、
近松門左衛門の浄瑠璃や
歌川広重の浮世絵にも登場します。
うばがもちや本店を出て歩いていると
赤ちゃんを抱っこした
奥様に声をかけていただき
一緒に記念撮影することに。
河田さん、いつも応援してますよー!
ありがとうございます!
クラモチさんもがんばっていらっしゃいますね!
クラモチさん??
僕のことですか?
名前を間違えられやすいくっすんは
今まで「くっさん」「ぐっさん」
「くすさん」と呼ばれたことがありましたが
「クラモチさん」は初めてでした。
彼は楠雄二朗、通称くっすん。
またU.K.とも名乗っています。
以後どうぞお見知りおきください!
草津は昔大きな宿場町でした。
というのも
東海道と中山道が交わる場所で
大勢の人が行き来したからです。
東海道と中山道の合流地点に
追分道標と呼ばれる
道しるべが設置されています。
「右 東海道いせみち」
「左 中仙道美のぢ」と刻まれています。
ん?「美のぢ」って何だ!?
これは「美濃路」のことで
東海道から中山道を結ぶ
街道のことを意味しているそうです。
そしてその追分道標のそばにあるのが
草津宿本陣です。
草津宿本陣
本陣とは公家、大名、幕府の役人など
身分の高い人たちが宿泊するための施設です。
建物は玄関、書院、門構(もんがまえ)を
備えているのが一般的です。
1865年には新選組の隊士が
宿泊した記録が残されています。
新選組は江戸で隊士を募集し、
新しい隊士を引き連れ京都に戻る途中で
土方歳三ら幹部4人を含む
合計32人が宿泊したという
記録が残されています。
本当に丁寧に保存、管理されているので、
一歩中に入るだけで
当時の雰囲気を味わうことができます。
目の前に大きな橋が見えてきました。
草津と大津を結ぶ近江大橋です。
1974年(昭和49年)に開通した
全長約1.2キロの橋で
実は緩やかなアーチ状になっています。
今回はこの橋を渡らずに
この「昔の人は偉かった」に
ふさわしい橋を渡って
石山寺まで歩くことにしました。
南へ約3キロ行くと
もう一つの橋が見えてきました、
これが瀬田の唐橋です。
瀬田の唐橋
その昔、
東から京都に向かうには
草津の矢橋(やばせ)から大津まで
船で琵琶湖を渡るのが最速ルートでした。
ところが比叡山から吹き下ろす風が強くて
危険な航路だったため、
急ぐなら遠回りして
瀬田の唐橋を渡るほうが良いと
言われたのです。
さらに当時こんな短歌も詠まれました。
もののふの
矢橋の船は速けれど
急がば回れ
瀬田の長橋
「急がば回れ」ということわざの語源は
この唐橋というわけです。
ちなみに瀬田の唐橋は
宇治橋(宇治市)、
山崎橋(大山崎町)とならび
日本三古橋のひとつなんだそうですよ。
唐橋を渡って瀬田川沿いを
さらに歩くと石山寺に到着です。
石山寺
平安時代に観音信仰が広まり
これが貴族の間でも流行しました。
石山寺を参詣していた紫式部が
源氏物語を起筆した話は
広く言い伝えられています。
御本尊は秘仏で
ご開帳は33年に一度、
もしくは天皇ご即位の翌年と
されています。
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