大阪府茨木市の宿場町から
箕面市の勝尾寺に向かう旅路、
約15キロ歩きます。
郡山宿
出発地点は郡山宿で
西国街道に面しています。
江戸時代には参勤交代の大名行列も
ここを通ったそうです。
茨木市から箕面市に入り
閑静な住宅地を歩いていると
二人の奥様に
声をかけていただきました。
その奥様たちは
くっすんに向かって…
コマ梅田さんですよね?
コマ梅田??
以前コマ梅田って呼ばれてませんでしたか?
…はい、コマ梅田としてテレビに出ていた時期があります。
えー、そうなの!?全然知らなかった~!ちなみにコマ梅田って何なの?
宮根誠司さんが司会されている番組に出させてもらっている時に、宮根さんに命名されたんです…。U.K.だけに Koma Umeda って。
なるほど~!くっすんはU.K.というタレント名もあるもんね。じゃあこれからはコマ梅田で!
やめてください~!!その番組を卒業する時にコマ梅田も卒業したので!
くっすんにとっては触れられたくない
過去だったようです。
そんなことを言いながら歩き続け
やってきたのは萱野三平旧邸です。
萱野三平旧邸
萱野三平はあの赤穂浪士の一人です。
赤穂藩主浅野内匠頭が江戸で
切腹させられたことを知らせるため
萱野は江戸から
地元赤穂藩まで走りました。
その道中自分の自宅の前、
ここ萱野三平旧邸の前を通ります。
すると自宅で葬式が営まれていました。
それはなんと萱野の母親の
葬式だったのです。
思わず自宅に
駆け込もうとした萱野ですが
そこをぐっと堪えて
走り続けることにしました。
自分の身内の不幸よりも
赤穂藩の一大事を
早く伝えることを
優先したのです。
江戸から赤穂まで
約750キロの道のりを
萱野は1週間で
駆け抜けたそうです。
スタート地点から
約10.5キロ歩きました。
到着したのは教学寺です。
教学寺
教学寺は皆さんお馴染みの
ある飲み物発祥の地なんです。
それはなんとカルピス!
明治時代のお話です。
当時の住職の長男で
三島海雲という
人物がいました。
海雲は日本語の教師で
日本語を教えるために
中国に渡ります。
そこで出合ったのが酸乳でした。
酸乳とは馬の乳を
乳酸菌で発酵させた飲み物で
飲むと美味しくて
しかも胃腸の調子が
とても良くなったそうです。
帰国した海雲は
この乳酸を世に広めようと
1919年(大正8年)に
商品化に成功。
それがカルピスです。
戦後には栄養補給品として
重宝されたそうですよ。
教学寺を出て再び歩き始めました。
そろそろお昼ご飯の時間です。
ファミレスにする?それともラーメンにする?コマ梅田は何食べたい?
コマ梅田はやめてくださいっ!!そうですねえ、何にしましょう?
その時です!!!
私たち二人の目に飛び込んできたのは、
なんと!
「COFFEE HOUSE Koma」!!
なんという奇跡的な
出合いでしょう!
店先で思わず
「コマ~~~!」と
叫んでしまいました。
お昼ごはんはここに決定やね!!
koma!?すごい偶然!!
それにしても
こんな偶然あるんですねぇ~!
ブログでは伝わりにくいのですが、
現場ではあまりに
タイミングが良すぎて
撮影スタッフもみんな
めちゃくちゃ
盛り上がってしまいました(笑)
お昼ご飯を終えて
さらに箕面市内を歩き続けると
箕面山(標高352m)が
見えてきました。
ゴールの勝尾寺は
山の向こうです。
その箕面山の麓の
瀧安寺にも立ち寄ることにしました。
瀧安寺
この瀧安寺は
宝くじ発祥の場所と
言われています。
安土桃山時代のお話です。
お寺に奉納金を納めた人の
名前を書いた札を箱に入れて
箱の中を槍で突いて
刺さった札に書かれた
名前の人はお守りを
受け取ることができる
という行事がありました。
これが江戸時代以降はお守りではなく
奉納金の一部が貰えるようになり
「富くじ」と呼ばれるように
なったそうです。
それが時を経て
宝くじになったのです。
瀧安寺から歩くこと約40分、
見えてきました箕面の滝です!
箕面大滝
関西屈指の名瀑箕面大滝は落差が33m。
その昔、箕面山で修行する行者たちは
この箕面大滝を、仏さまと融合し
救われる場所と信じてきました。
箕面大滝を越えると
ここからはいよいよ
本格的な山道です。
勝尾寺まで約4キロの道のり。
道はかなり険しく
休みながら歩き続けました。
道中くっすんが
泣き言いったり、
倒れ込んだり、
いろいろありましたが…
そのあたりは割愛しますね。
山道を歩くこと約1時間、
ついに見えてきたのが
勝尾寺の山門です!
勝尾寺
その山門をくぐると
とても広大な美しい境内が広がっています。
池に架けられた橋を渡ると、
辺りからミストが立ちこめる演出も!
幻想的です~!
勝尾寺というお寺の名前には
言い伝えがあります。
平安時代に清和天皇が
病にかかってしまい
寺の住職がご祈祷されたそうです。
すると天皇の病は
みるみる回復したことから
「王の病に勝った寺、勝王寺」と
命名されたのです。
しかし、寺側はあまりに畏れ多いと
「王」を「尾」に変えて
「勝尾寺」と称する様に
なったそうです。
それ以来「勝運の寺」として
広く信仰されるようになりました。
転んでも起き、己に打ち勝つ
「七転び八起きの精神」。
その精神と勝運信仰の歴史が
一体となったのが
「勝ちダルマ」で
境内のいたるところで
目にすることができます。
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