スタート地点は
和歌山県紀の川市の名手宿本陣です。
早朝なので辺りはとても静かです。
今回は紀の川市内を歩き
標高885メートルの三国山を越え
さらに槇尾山を登り
施福寺を目指します。
西国三十三所巡礼一の難所と
言われています。
予報ではお天気は下り坂、
大丈夫かな~
名手宿本陣
大和街道に面していたため
藩主の参勤交代や鷹狩りの折に
宿泊に利用されていました。
今回はこの名手宿本陣から
山を越えて施福寺を目指します。
名手宿本陣から歩くこと約1.2キロ、
大変立派な建物が見えてきました。
春林軒です。
春林軒
春林軒は江戸時代の医者、
華岡青洲の自宅兼診療所です。
この華岡青洲は
世界で初めて乳がんの摘出手術を
成功させた人物で、
現在この建物は展示施設になっています。
乳がん摘出手術を行う際に
不可欠なのは全身麻酔薬でした。
しかし、当時動物実験は
できたものの
実際に人体実験することができず
実用化は困難でした。
そこで実験台になると申し出たのが
なんと青洲の実母と妻。
その人体実験の甲斐あって
麻酔薬「通仙散(つうせんさん)」が完成し
世界で初めて
全身麻酔下の乳ガン摘出手術に
成功したのです。
しかし、
この実験が原因で
妻の加恵は失明したと言われています。
青洲はその功績が認められ
当時の紀州藩主徳川治宝から
侍医として取り立てられますが、
公職に就いても
一般患者の診療を続けたいと
願い出たそうです。
春林軒を後にして歩き始めると
雨が降り始めました。
雨の中長距離を歩くのは
とても体力を奪われます。
そんな雨の中さらに約1キロ、
龍之渡井と呼ばれる
橋にたどり着きました。
実はこの橋、
普通の橋ではないんです。
龍之渡井
この橋の正式名称は
小田井灌漑用水路龍之渡井です。
もちろん人が穴伏川を
渡るためのものなのですが、
実は水もこの橋を渡っているのです。
江戸時代の話ですが
この辺りの農業は
慢性的に水不足でした。
そこで1707年、
紀州藩主徳川吉宗の命で
水量が豊富な紀の川から
用水路を引き、
この穴伏川を越えて
水が不足している田園にも
水を送ることが
できるようになったのです。
江戸時代のことですから
きっと大工事だったことでしょう。
やっぱり昔の人は偉いな~
ここからいよいよ本格的な山道です。
越えなければならないのは三国山。
標高は885メートルで
西国巡礼一の難所と言われています。
山道を登ること約2時間、
標高約550メートルに位置する
定福寺にたどり着きました。
定福寺
定福寺には
こんな伝説があるそうです。
その昔西国三十三所札所の
札所を決める会合が行われました。
その会合に定福寺の御本尊、
十一面観音さまも参加したそうです。
定福寺の十一面観音さまは
お喋りが大変上手で
三十三所について熱弁されました。
しかし、
話しに熱くなりすぎてしまって
肝心の定福寺を三十三に入れるのを
すっかり忘れてしまいました。
それ以来「帳落としの観音」と
呼ばれるようになったのです。
さらに山道を歩きます。
いつもは町中の飲食店で
昼食をとるのですが、
今回はそれができないので
それぞれお弁当を持参しました。
くっすんのお弁当は
奥様がつくったこちら!!
すごい!
本当に手の込んだ
美味しそうなお弁当ですね~!
おにぎりはくっすん家の
お子さんふたりの顔なんだそうです。
そして私河田のお弁当はこちら!
…よかったら僕のエビフライどうぞ。
なんか見下してない?
いえいえ、そんなことないですよ。
ただ河田さんがなんだかかわいそうで…。
コンビニ弁当なめたらアカンで!
昼食後はひたすら登り続けました。
雨が降り続ける中
麓から約5時間、
ようやく三国山山頂です~!
しかし本当にしんどいのはここからです。
一見下りの方が楽そうですが、
それがそうでもなくて…
徐々に足に力が入らなくなり
膝が痛くて思うように
歩けなくなってきました。
しかし山の中なので
もちろん途中でリタイアはできません。
山頂から約3時間、
やっとの思いで
三国山を下山することができましたー!
しかし、二人とも
もうボロボロです。
ですがゴールの施福寺はまだ先。
標高約600メートル槙尾山の
山頂手前、標高485メートルに
施福寺があります。
そうです、
ここからまた山を登るのです。
距離は約1キロ、
石段の数は800段、
これが西国巡礼一の難所と
言われる所以です。
さらにこの日は雨が降り続け
湿度も高くカメラのレンズが
曇ってしまいます。
これから掲載する写真は
めちゃくちゃ曇っています。
見にくくてすみません。
ちなみに
新田ディレクターのメガネもこの通りです。
最後の力を振りしぼって石段を上ります。
そしてようやく施福寺に到着です。
施福寺
施福寺までの道中は
道が大変険しくて苦しみました。
しかし、
御本尊に手を合わせると
その苦しかった時間が
自分にとって貴重な経験になっている、
そんな気分になりました。
昔の人たちも
きっとそんなことを
思っていたのではないでしょうか。
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