江戸幕府二代目将軍・徳川秀忠の命により築城された明石城を目指して歩きます。
当時、外様大名が多かった西国ににらみをきかすために建てさせたそうです。
住吉神社
スタート地点は住吉神社、目の前に瀬戸内海が広がっていてきれいですね~!
住吉神社は464年に創建。海の守護神である住吉大神が祀られていています。
また神社の境内には1627年に初代明石藩主・小笠原忠政が寄進した能舞台が建てられています。そしてこの能舞台、鳥居、拝殿、本殿が一直線に配置されているのが特徴です。
なぜ一直線に配置しているかというと、こうすることで神様の通り道をつくっているのだそうです。だから能舞台の鏡板は普段取り外されています。こうやって昔から地元の漁師さんたちを見守ってきたのですね。
住吉神社を出発し東へ。途中から西国街道を歩きます。
西国街道は京都と下関の約500キロを結ぶ街道です。江戸時代には多くの旅人たちや参勤交代の大名行列も往来しました。
歩くこと約5キロ、やってきたのは大久保町です。元々ここは宿場町で約80軒もの商家が建ち並び大変栄えました。
この大久保の宿場町には大名行列や旅人だけでなく、ある動物がやってきて大きな騒ぎになったことがあるそうです。
1728年のお話です。当時の将軍は徳川吉宗。吉宗は大変好奇心旺盛で新しい物好きでした。そんな吉宗はある時家臣にこう言ったそうです。
象を見てみたい
ゾウ!?
家臣たちはびっくりしたでしょうね~
もちろん当時日本に象なんていませんし、外国からつれてくるにしても鎖国していたので国交もかなり限られていました。
しかし吉宗の家臣たちは手を尽くし、なんと!ベトナムから象を連れてくることに成功したのです!
無事長崎に上陸した象は陸路で江戸まで約1300キロを歩いたそうです。
その道中でこの大久保の宿場町に立ち寄ったというわけなんですが、見たこともないめずらしい動物がやってきたので町中大騒ぎになったのは想像に難くありません。
で、江戸まではるばるやってきた象とついに対面した将軍吉宗。初めて象を見て吉宗はこう言ったそうです。
思ったより小さいのう
まわりの家臣たちはひっくり返ったでしょうね!こんなに苦労して連れてきたのに~
吉宗はその後すぐに象に飽きてしまったそうです。
宿場町を抜けて海沿いの通りを歩きます。遠くに明石海峡大橋が見えますね!
2022年まで世界最長のつり橋だった明石海峡大橋ですが、トルコで建設された1915チャナカッレ橋に抜かれてしまい、現在は世界第二位です。
明石川を越えると城下町です。
実はこの城下町の町割りなどの整備にあの剣豪・宮本武蔵が携わりました。武蔵は初代藩主・小笠原忠政に招かれしばらくこの明石に身を寄せていたようです。
城下町の町割りは軍事戦略の一部。小笠原忠政が天下に名を轟かす武蔵を頼ったということなのでしょうか。
そんな明石の城下町ですが、太平洋戦争時に明石は大空襲を受けて明石市の約60%が焼失してしまいました。なので現在は城下町の面影がほとんど残っていません。
そんな空襲で甚大な被害にあった明石ですが、戦後に目覚ましい発展をとげます。こちらの商店街も見事に復活して今では大変な賑わいです。
魚の棚商店街
このあたりでは元々商店の軒先に板を敷いてその上に魚を並べて商売をしていたそうです。その光景が魚の棚のように見えたということで魚の棚商店街と呼ばれるようになりました。
現在は商店街の全長350メートルに約110店が軒を連ねています。
商店街を通り抜けて南側へ。
いろんなお店が建ち並んでいますが、創業安政三年という看板のお店が目に止まりました。安政三年といえば今から160年以上前です。
富士せんべい
富士せんべいは昔ながらの手焼きせんべいを製造販売しています。
店内では7代目が大きな機械を使ってせんべいを手際よく焼いています。
6代目が江戸時代に使われていたせんべいの金型を見せてくれました。昔はこれで一枚一枚焼いていたそうです。
6代目と7代目、親子で作る富士山型のせんべいはほのかに甘くて優しい味わいです。
店を出てさらに東へ歩きます。
明石城まであとちょっとですが、ここで明石ならではの石碑をみつけました。
子牛線ですね!?
子牛じゃなくて、子午線ね
1884年(明治17年)に国際子午線会議が開かれ、イギリスのグリニッジ天文台を通る子午線を経度の基準とすることが決められました。
そこから経度が15度隔たるごとに1時間の時差を定め、日本は東経135度を標準時に制定しました。
ちなみに子午線というのは、十二支の子と午が北と南を指すことから子午線と呼ばれるようになりました。こんな感じですね↓
子午線の石碑から数分歩けば明石城です。大きな石垣とお堀が見えてきました。
明石城
日本100名城に数えられる明石城。1619年に初代藩主・小笠原忠政によって築城されました。
三重櫓の巽櫓と坤櫓は重要文化財に指定されています。三重櫓は全国で12基しか現存していません。
明石城では天守閣は建造されませんでしたが、天守台は東西25メートル、南北20メートルという大きさで、5重の天守閣を建てることができる広さです。
大きな天守台を築いたのは、大分県の中津城の天守を移築する計画があったから、という説もあるそうです。
中津城といえば豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛が築いた城。移築が実現していれば、明石の風景は今とは違うものになっていたかもしれませんね。
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