【岐阜城】にっぽん城下町めぐり(岐阜県岐阜市)

にっぽん城下町めぐり

数多の戦国武将の中でも特に人気が高い織田信長。その信長が天下統一の足掛かりにしたと言われる岐阜城を目指して歩きます。

スタート地点は木曽川です。朝日に照らされて水面が輝いて見えますね。

今回の目的地岐阜城のそばを長良川が流れているのですが、そこで獲った鮎で鮎鮨がつくられました。そして江戸時代には幕府に度々献上されたそうです。

また徳川家康がこの鮎鮨を大変気に入ったため、長良川から道を整備させ頻繁に鮎鮨を運ばせました。この鮎鮨を運ぶための道は鮎鮨街道、または御鮨街道と呼ばれました。

岐阜市歴史博物館所蔵

大好きな鮎鮨のために道までつくってしまう家康さん、すごいですねぇ~

その鮎鮨街道を歩き北上します。

しばらくすると加納町という町にやってきました。関ケ原の合戦で勝利した徳川家康がこの土地に加納城を築きました。今でも城下町の名残を感じます。

かつて加納町では竹と和紙の生産が盛んだったことから和傘が作られるようになりました。最盛期には全国生産の25%がこの加納町で生産され、岐阜和傘と呼ばれるようになりました。

その岐阜和傘の製造現場を坂井田永吉本店で見学させてもらいます。

坂井田永吉本店

坂井田永吉本店

工房におじゃますると、職人さんがちょうど傘骨に和紙を貼り付ける作業をされていました。完成品はとても美しくて美術品のようです。特に内側の骨組みはとても繊細で見惚れてしまいます。

一本完成させるのに1か月半ほどかかるそうです。

雨の日にこの傘をさすの、なんだかもったいないような気もしますね。

江戸時代ではこの和傘作りが加納藩の財政を支えた時期もあったそうです。その当時の技術がこの令和の時代にも引き継がれているのです。

坂井田永吉本店を出て再び歩きます。スタート地点の木曽川から約7キロ、近代的で立派な駅が見えてきました。JR岐阜駅です。

そしてこの駅のシンボルが黄金の織田信長像!本物の金箔が使われていて総工費はなんと約3000万円!!

JR岐阜駅を通り越しさらに北へ。いよいよ岐阜の城下町です。

元々斎藤道三が金華山の上に稲葉山城を築城した時に整備されたのがこの城下町です。

斎藤道三の死後、1567年から織田信長が地名を岐阜と改めて治めました。そこで自由に商売をすることを許し大変賑わいました。いわゆる楽市楽座という政策ですね。

そろそろ昼食の時間です。このあたりで評判のおそば屋さんでいただくことにしました。趣のある外観ですね~

のやま亭
健康・ダイエットに最適な、竹そば・薬丸君...

名物の竹そばを提供するのやま亭

実は竹そばにはそば粉を使わず小麦粉がベース。三種類のそばは、よもぎ、ひじき、自然薯の粉を練りこんでいるそうです。

食べてみると、そば自体は細いのですがもちもちとした食感。後からよもぎの風味が口の中に広がってきました。おいしい~!三種類味わえるもいいですよね。

美味しいおそばをいただいた後は住宅地を歩き続けます。すると次の目的地のお寺が前方に見えてきました。

みなさんは日本三大仏ってご存知でしょうか?一つは奈良・東大寺廬舎那仏。もう一つは鎌倉・高徳院阿弥陀如来。そしてもう一つがここ岐阜・正法寺釈迦如来なんです。

正法寺

黄檗宗 金鳳山正法寺 大仏殿

正法寺は1683年に建立されたお寺。本堂の中に入ってみてびっくりしました!これが高さ13.7メートルの岐阜大仏です!!

奈良や鎌倉の大仏は銅などの金属で作られていますが、この岐阜大仏は竹などの木材で骨組みを作り、その上から和紙、うるし、金箔で表面を固めて作る乾漆仏。乾漆仏としては日本で最大です。

この大仏が作られたきっかけは1737年の天明の大飢饉です。

大勢の庶民が亡くなったのですが、その人々の供養、そして無病息災を祈願するために正法寺の11代目の住職が発案しました。

和傘でもありましたが、木材と和紙はこの地域の特産品。それを上手に利用したのですね。

近くで拝むと金属とは違う柔和な雰囲気が漂っているように思いました。そして岐阜大仏に見下ろされていると不思議と守ってもらえているような安心感に包まれます。

長良川を渡って進むとはるか遠くに岐阜城が見えてきました!

しかしその岐阜城が建てられている場所を見てびっくり!昔の人たちはどうやってあの山の上に城を建てたのでしょうか??

通常は金華山の麓からロープウェイで山頂までいくことができます。

しかし、この企画ではいつもそうなんですが…、この金華山を登ります!昔の人と同じように…。

遠くに見えていた金華山ですが、麓までやってくるとかなりの急こう配に驚きました。

老人・幼児には無理です

という強めのメッセージが。たしかにかなり厳しい山道です。

ここは馬の背登山道と呼ばれ約1.1キロの道のりです。

金華山は標高329メートル、全体が地殻変動で盛り上がってできた岩山です。なので足場はごつごつとした岩だらけ。登るのにかなり苦労します。

あまりのきつさにとうとうダウンしてしまうくっすん。

くっすん
くっすん

すみませ~ん。もう動けないのでおんぶしてもらえますか?

河田
河田

…………。

しんどすぎて無茶苦茶なことを言いだすくっすん。

こうなったらもう無視ですよ。くっすんを無視しながら登り続けます。山頂まであとちょっとですから。

登り始めて1時間10分、ようやく岐阜城が見えてきました~~!疲れた~

かなりハードな山道だったので、ベテランのスタッフも、体重が重めのスタッフも疲労困憊です。

1539年に斎藤道三金華山を切り開き築いた稲葉山城。当時「美濃を制するものは、天下を制す」と言われた要衝であり難攻不落と呼ばれた城です。

岐阜城

岐阜城天守閣|岐阜市公式ホームページ
岐阜市公式ホームページ

その稲葉山城を1567年に織田信長が乗っ取り岐阜城と改名しました。この当時、信長はものすごい勢いで勢力を拡大していきます。

この岐阜城を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイス岐阜城を訪れこの様な記述を残しています。

フロイス
フロイス

織田信長の宮殿は4階建てで、あちこちに黄金がちりばめられ、厳選された上質な木材を磨き上げて作られていた。城下町は古代オリエントの都市バビロンのように繁栄していた。

フロイスはこの巨大な城に大変驚いたようですねぇ。

岐阜市歴史博物館所蔵

しかし、その後1582年に明智光秀による謀反、いわゆる本能寺の変が起き信長は死亡。

信長亡き後は、池田輝政、豊臣秀勝、織田秀信らが城主となりますが、関ヶ原の戦いの後、徳川家康岐阜城を廃城にしました。

現在の岐阜城は昭和31年に再建され、鉄筋コンクリート造りで3層4階構造。城内は展示施設で楼上は展望台になっています。

この展望台からの眺めは抜群で、北側の日本アルプスをはじめ壮大な山々に囲まれ、眼下には長良川、そして木曽川を見ることができます。

10月中旬ごろまでは開館時間が午後5時30分までなので、夜景も楽しめるのでおすすめです。

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