今回は大阪南部の堺市から岸和田市の岸和田城を目指して歩きます。
スタート地点は浜寺公園です。
浜寺公園
日本には江戸時代まで公園という施設は存在しなかったのですが、明治維新以降に欧米から公園という概念がもたらされ整備が始まります。
1873年、古くから残る名所・旧跡地を公園にするようにという太政官布達が出されます。
その当時、かつて名勝と呼ばれていた浜寺はずいぶん荒れ果てていました。
その理由は、明治維新で仕事を失った武士たちの生活保護費捻出のために浜寺の土地や松林が売却されたからです。
その浜寺にやって来たのは明治維新の立役者のひとり大久保利通です。荒廃した浜寺を見てこんな歌を詠みました。
音に聞く
高師の浜のはま松も
世のあだ波は
のがれざりけり
武士のためとはいえ、かつての景勝地も時代の流れには逆らえないのかという意味だそうです。
その後、太政官布達によって浜寺をふくむ全国25か所が、日本で最初の公園として誕生したのです。
こうして日本で初めてつくられた公園のひとつになった浜寺公園は、1906年(明治39年)に海水浴場が整備されます。
白い砂と松林がとても美しく、東洋一の海水浴場とも呼ばれ大変賑わったそうです。
これがその当時の浜寺です!すごくないですか??
現在も浜寺公園は約5500本の松の木が美しい公園として、多くの人たちの憩いの場になっています。
浜寺公園を抜けて南へ紀州街道を歩きます。大阪と和歌山を結ぶ街道で、江戸時代には大勢の旅人が往来したそうです。
堺市から岸和田市に入りさらに進みかつて岸和田の城下町だった地域へ。昔ながらの街並みが広がります。
この辺りは室町時代には岸という地名でした。しかし楠木正成の一族、和田氏がこの土地を治めることになったので、「岸を治める和田」で岸和田となったそうです。
歴史を肌で感じながら歩いていると目の前に趣きのある博物館が。
職員の方が「どうぞ見学していってください」と声をかけてくださったのでお邪魔することにしました。
きしわだ自然資料館
きしわだ自然資料館は、岸和田周辺の自然について標本、模型、ジオラマなどで紹介。そして発掘された古代生物の化石なども展示されています。
そして興味深いのがこの資料館の三階。たくさんの動物のはく製が展示されているんです。
その昔これらの動物が岸和田周辺に生息していたのか!?と思いきや、実はこのはく製は岸和田在住のある資産家が所有していた物なんだそうです。
1992年にその所有者が岸和田市に譲渡することが決まり、それをきっかけに資料館を設立することになりました。
この白くま、めちゃくちゃ恐い顔してますね~
その白くま、口の部分だけオオカミの口がつけられてるんです。恐く見せるために
えぇーーー!?
蕎原文吉さんという方が寄贈したはく製は約400点もあるそうです。今も市の財産として資料館で大切に保管されています。
資料館を出てさらに南西へ。次はちょっとめずらしい逸話が伝わっているお寺で貴重な資料を見せていただきます。
天性寺
1570年に創建された浄土宗のお寺天性寺。ご本尊は岸和田を守ったとされる地蔵菩薩です。
お地蔵さまが岸和田を守ったというのはどういうことなんでしょうか?
ご住職がお寺に代々伝わる貴重な巻物を見せてくれました。
1334年に大きな台風が岸和田を襲いました。このままでは岸和田は大ピンチ!
その時に高波を抑えて町を救ったのがこのお地蔵さまだったのです。
しかも、お地蔵さまが乗って現れたのが…
タコ!!
不思議ですね~!なんでお地蔵さまはタコに乗って現れたのでしょうか!?しかもこれだけではありません。
この台風から約200年後。紀州根来衆と呼ばれる僧兵集団が岸和田城を襲撃しました。
その時に岸和田を救ったのがお地蔵さまの化身である大変勇ましい法師なのですが、
この法師が乗っていたのが…
タコなんです!!
しかも、たくさんのタコがどこからともなくやってきて、スミを吐き根来衆を撃退したそうです。
それ以来、天性寺では蛸地蔵をご本尊としてお祀りされています。
ちなみにご住職はタコ断ちをされていて、今まで一度もタコを食べたことがないそうです。
岸和田城まであとちょっとですが、せっかく岸和田まで来たのでアレをメインにした展示施設にも立ち寄ります。
大きくて大変立派な建物ですよー!
岸和田だんじり会館
岸和田だんじり会館は1993年に開館、岸和田のだんじりの歴史や魅力を伝えています。
岸和田のだんじりは元々1703年に岸和田城内の稲荷祭で太鼓や芸事を演じお殿様に披露したのが起源とされています。
当初のだんじりは台車に太鼓を積んだような簡易な物のようでした。それが少しずつ大きく豪華になり現代に受け継がれたのです。
そして会館には過去に使われていた本物のだんじりが展示されています。これは旧紙屋町だんじりで江戸時代後期の1841年に作られたものです。実際に1990年まで使われていました。
現在祭りで使われているのはほとんどが大正以降に作られたもので約10年ごとに大改修を行っているそうです。
激しいお祭りですからメンテナンスも大変なんでしょうねぇ!
岸和田だんじり会館を出ると岸和田城はもうすぐそこ。立派なお堀が見えてきましたよー!
岸和田城は安土桃山時代の1585年に豊臣秀吉の紀州征伐の拠点として築城され、1597年には秀吉の叔父にあたる小出秀政によって天守閣が築かれました。
岸和田城
元々岸和田城は1400年ごろに岸和田という地名の由来になった和田高家が築城したとされています。
その後1585年に秀吉の叔父にあたる小出秀政が大改修を行いました。当時は5層天守の大変立派なお城だったそうです。
1631年には岸和田城の城主になった岡部宣勝が城郭や城下町の整備を行いましたが、宣勝はもう一つの役割を担っていたと言われています。
それは紀州藩・徳川頼宜を監視すること。頼宜は江戸幕府に対して裏切りの疑いをかけられていたというのです。
岸和田市のホームページにはこんな逸話も。
ある時江戸城で、二人(岡部宣勝と徳川頼宜)が出会った際、頼宣に「君が和泉に居(お)られるのは、我らのおさえのためだと聞き及んでいるが・・・」と問われたので、宣勝は「大身(たいしん)のあなたをおさえるなど、とんでもないことです。せいぜい足の裏に飯粒が付いたくらいのことでしょう」と答えたという。
足の裏についた飯粒は、気持ちが悪いものです。宣勝は、岸和田藩を飯粒にたとえながらも、小藩の意地を通したものでしょう。これを聞いた頼宣は、唖然(あぜん)としたと伝えられています。
頼宜といえば初代紀州藩主で徳川家康の十男、八代将軍徳川吉宗の祖父です。
以前和歌山城に行った時に、頼宜が駿河から鉄砲職人を連れて和歌山にやってきたという話を聞かせてもらいました↓
現在の天守閣は昭和29年に建造された3層3階で、内部は展示施設やフォトスポットになっています。
日本100名城というのは有名ですが、続日本100名城もあるのをご存知でしょうか?日本100名城と同じ以下の選定基準で選ばれています。
〇優れた文化財・史跡であること
〇著名な歴史の舞台であること
〇時代・地域の代表であること
この岸和田城は続日本100名城に選ばれています。
実際に足を運ぶとその歴史的価値が高いことや、地元の皆さんに愛されている名城であることがよくわかりました。
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